口訳対照古今和歌集

万葉集は「何を歌うべきか」の歌集であり、古今集は「如何に歌うべきか」の歌集であり、そして新古今集は「如何に絵にすべきか」の歌集である。万葉集の真価が公正な判定の下に置かれる様になった近代は、その反動の意味も加わって古今集の評判が従来程でなくなった事は事実である。古来の尊崇と、特に桂園に依って歌道の最高範例として提示せられた事とから、殆ど明治以前一世を風靡した古今熱が俄然降下したのは固より当然と云うべきであるが、惰性が少し下り過ぎた感なしとせぬ。私一箇の好みに偏すれば、色彩の絢爛な新古今の絵巻物よりは、平凡で大様な淡彩の古今集の方が親しめる様な気がする。物足りない所のある代りに何となく気安さがある。万葉集が優れていると言つてもそれは全体としての事で、一首一首を取り出せば拙作も随分多く、古今の中にも佳作絶唱が決して無くはない。况や文学史的に見て又、国歌の三大風調の一の代表者として、この我国最初の勅撰和歌集の真摯な研究は忽(ユルガ)せにすべからざるものでなければならぬ。古今序に於ける歌論の考察だけでも十分有意義な仕事である。そして古今集に関する文献が古来充棟も啼くならぬ程存するに係らず、古今集の研究は未だ決して為し尽されていないのである。

安田喜代門・池田正俊両氏の共著「口訳対照古今和歌集」は、この古今研究に於ける在来の誰もが試むべくして未だ試みなかつた方法に拠る一の過程を成し遂げ得た近来の愉快な著述である。この書の最も大きな特色は、古今集の原形を一旦バラバラに解きほごして、更にそれを年代順・作家別に組替えて、新しい形の古今集を編成した事である。即ち第一編は歌謡で、大歌所御歌や東歌等、つまり原集巻二十に収められてあるもの、第二編は和歌で、第一部に読人知らずの歌を(一)題知らずの歌、(二)題ある歌、に別けて載せ、第二部に読人明らかな歌を第一第二の両期に別けて各作家の項下に各々その詠を集めて収めてある。和歌の文学史的研究方法として必然で且望ましい……若しそれが可能ならば……作業の成果を示し得られた事に先ず多大の敬意を払い度いと思う。それに関連して各首毎に原集排列の順序番号を添え、又、終りに原本順索引が附してある事から、原集と対照するに便利で親切な著者の用意が窺われ、更に各首に万葉集・菅家万葉・神楽・催馬楽・三十六人集・古今六帖・新撰和歌伊勢物語・大和物語・土佐日記・諸歌合等所見のものとの異同を註してあるのも周到な試みである。

本書に就いて更に私の感興を惹(ヒ)く著者の労作は、各首に現代口語訳を対照せしめた事である。古今集の口訳は、古典口訳の先鞭をつけて註釈に一新生面を開いた本居宣長の遠鏡があり、石原正明をして、

本居先生の古今集遠鏡、未だ世に広ごらざるほど、其の構へを伝へ聞きて、いたく取りくたしたる事なり。唐詩選の国字解てふ物にぞ似るべき、と思へりしに、さもめでたく解きなされたり。大方註釈を読みては、ねぶたうのみなり行くに、これはいと興ありて、目さむる心地す。世の唐詩選解く輩は、皆かの国字解のたぐひにて、蓮の莟にはらまれて、十二の天楽聞くが如く、心ゆかぬ事のみなり。人毎に読み講ずる書なるを、など斯う人の心にしむばかり説きなす人のなからん。(中略)さばかり詩人(からうたびと)といはれし人の作れる国字解の、いともいとも拙きを思へば、遠鏡はますます尊し。(年々随筆

と嘆賞せしめた通り、確かに優れた述作ではあるけれども、源氏物語に於ける北村湖春の故意に懐古風に綴つた「忍草」ほどはないとしても、今日から見れば是も亦、既に古典化せんとしつつある。現時でも教場で吾々お互が古典を講ずる時、実は誰でも是を現代語に翻訳して説かない者はない。そして恐らく自ら十分満足する様な形で原文を現代の学生達に理解せしめる事の困難さを嘆ずるのは、独り私ばかりではあるまいと思う。古典の現代語訳は、厳密には不可能事である事かも知れない。然し相対的には少なくとも自他共にうまく訳し得たと感じた場合の表現が、原文を正しく味解したと云う有力な……或意味では絶対の……徴証と見做す事は許さるるであろう。

今の世の言にも、平言には、皆までいはで聞する事多し。人の悦びあり悲しびある時に、さぞとぞんずるとばかりいひて、其悦び悲しびを省き、暑さ寒さにたへがたいとのみいひて、其意を含め、人に物を令する時、これをといひあれとばかりいひて、もてゆけもてこいを略るたぐひ常多かると同じ事也。詞の自在してわがものなりし世の歌書には比類多かる故に、今の世の人に耳遠き事の多き也。いかで雅語のかやうに平言になるばかり、手に入らまほしきわざにこそ。(湖月鈔別記

の守部の歎ある所以である。要するに古典の原意を正しく理解し、十分に鑑賞し得、然もそれを自分の言葉で表現する能力の恵まれた人及び場合にのみ、古典の完全なる口訳は成功する。単に辞書にある語彙を当て嵌めて、古語を現代語に置き換へる丈なら先ず出来る。又、原文の意味だけを平易に口訳するだけなら、是も亦さ迄困難でない。原文の詞句を離れず、然もぎごちない直訳に堕せず、その上原文の有つ微妙な律動、味い、匂い迄写し伝えようとする事になれば、もう立派な一の創作である。殊にそれが散文でなく、短歌、俳諧等の場合にあつては愈々難事業である。その困難、苦心に就いての著者自身の言葉は全く同感で心から御同情する。而もこの問題に就いて本書の口訳者の態度、及び成果は殆ど私の希望を満してくれるに庶幾いものが有るのが非常な喜びである。一二の例を挙げれば(詞書略す)

◇わがせこが くべきよひなり さゝがにの
       くものふるまひ かねてしるしも

夫の帝は今宵きつと、お出でになることであろう。蜘蛛があんなに巣をかけて居るのだもの。

◇いざ桜 我もちりなん ひとさかり
        ありなば人に うきめ見えなん

さあ私もお前と同様にいづれは浮世の覊絆(キハン)を脱する考だ。盛りの後に来る悲を人に見せまいとする心は自分にもよく頷けるようだ。

と云つた風である。全部が完訳とは云えなかろうし、誤訳も絶対にないとはし難いが、それは末の問題である。狙い所が狂つていないのと、それに向つて十分の努力が払われ、且かなり成功している点が、平生古典の口訳と云う事に少なからず関心を有している自分に、特に目立つて注意を促されたので、贅弁を費した次第である。

次に推賛すべきは、巻首に掲げられた二箇の研究論文である。一箇は安田氏の「古今集概説」、今一箇は池田氏の「古今集の撰述と紀貫之」と題するのがそれである。

「概説」の方は、古今集の性質を概説すると共に、本書編纂の態度用意に就いての主張が述べられてある。古今集の価値に就いて、民謡的な歌や、読人知らずの歌の注目すべき事を説いたのは、著者に限つた見ではないが正しい所論である。同集の成立に、召歌・献上歌・屏風 歌・歌合歌との関係が深い事を力説したのも肯ける。時期の区劃は大体に於て珍しくはないが妥当である。もつと細かに区劃が立てられれば一層理想的であろうが、事実殆ど大抵年代の明記してない詠歌乃至作者を取扱うのであるから、困難であると共に、劃然と細分する冒険は却つて混乱と失敗とを招来するに過ぎないであろうから、著者の執つた態度を不精密とするは当らない。古今和歌集目録や日本文学年表の誤謬を訂正した考証は、恐らく著者の会心な発表であろう。全部を直ちに決定的のものとする事は出来ない迄も、在来先人の説に盲信する事で満足していた態度に刺激を与え、且教えられる所のものが少なくないのを愉快とする。没年の明かな作家を先ず排列し、残りの作家は一々大略その年代を考究しつつ順序を立ててある。概説の主要部分は、この作家の年代排列の方法に関する過程、及び結果に就いての論証に費されてあり、この論文の価値も、亦最もここに存すると云うべきであろう。

「撰述と貫之」に於ては、貫之が古今集、撰進の大抱負を実現するに当つて、特に所謂六歌仙を拉し来つて論評した理由に関して、十分意識的な意味があつたものと目してあるのは面白く、又、貫之の個性が時代風潮に乗る事に順応する一面のみでなく、時代に飽足らない反省と理想との一面がかなり強い理知家であつたろうとの推測、それと関聯しての技巧歌の問題、隨つて古今集撰述事情との交渉の考察、又、理知の人であると同時に人情の人であつたろうとの説述、何れも快適な論弁と云うを憚(ハバカ)らない。

口訳は和歌各種に止まらず、和序は元より漢序に迄及んでいる。又、口訳で尽さない難語の解及び異説のあるものは併せ掲げる為に、付録に難語句解釈通覧を添え、その他、人名索引、地名索引、古今集年表、古今集系図、古今集地図をも載せ、且先に言及したように、原本順索引と、それから巻首には初句索引の利用が出来る様になつており、努力の上から云つても、読者の便宜の点から云つても、申し分はない。

終りに一言し度い事は、この「口訳対照古今和歌集」は既に述べた様に、古今集研究の一方法……或側からした……として必ず試みられねばならない行き方であるが、古今集の全的研究としてはこれで尽されたのではないと云う事である。これ丈で無論立派に有意義な仕事であり、且成果であるが、それと共に是は一面、全的研究への一過程、一の大切な基礎的研究であるとも云える。即ち本書では、古今和歌集の原形を離れる憾のある事は否まれない。それは、原本順索引に拠つて補われるとは云え、又、原形を崩すのが本書成立の主目的であるのだけれども、猶全一としての古今集、勅撰集としての形態は、云う迄もなく原集に拠つてのみ考察、鑑賞、批判せられねばならないのである。そこで研究に限らず、一般読者側からしても、本書と原集とを併せ読む事によつて、恐らく古今集の全貌に持し得る事を庶幾する事が出来ると信ずる。この意味に於いても古今鑑賞者並びに研究家にとつて、是非一本を座右に具えたい良著である。金子元臣氏の「古今集評釈」以来の収穫として、同書と共にこの書を一般に薦め度いと思う。

(国学院雑誌第36巻10号より)

三矢博士著『文法論と国語学』

過般学友安田喜代門氏から三矢博士の文法論と国語学に就いて感想を書いてはくれまいかという御手紙を受け取つた。三矢博士には生前お目にかかる機会を得なかつたが、或は著書に於いて或は雑誌上で、常にそのお説は拝見しており、その篤学な研究態度と穏健な学説とに敬服していた一人である。本書第二編日本文典(明治三三年の講義)総論の中に「先ず一般に宜いと認めてあるのは大槻さんの文典、これに批難を云う人もありましょうが、当時の文典上の一の勢力となつておりますから、読んで見る価値は十分あると思います。又、小さなものでは富山房から出た中等国文典、この本は三冊になつておりまして子供に教える順序方法を工夫して書いてある。これも文典上から見ると不完全でありますが、子供に教えるその心持だけは得ております。その外のものは沢山あるが、明治時代より以前の文法書を、御覧になるのが宜いのです」といつていられます。明治時代より以前の文法書を見よといつていられるのは、西洋文法の影響なく、国人によつて為された国語の研究を見よという意味であつたものと思う。勿論この考えの中に、狭量な排他的な非科学的な意味は毛頭も含まれては居ない。既に独立の文化を持つた後に発達した国語には、国語だけが有つている特質の多くがある筈である。然るに若い研究家は屡新奇と便利とに誘惑されて、外国語研究の範疇に捉われがちであるから特にその点を注意されたものと信ずる。この意味に於いて私も学生等に草野氏日本文法を推奨している。

そうしたわけで、見解上には多分に相違を持つていながらも、三矢博士の説には非常な親しみを感じており、また啓発された点も少なくは無かつたのであるから、安田氏の依頼は直ちに快くお引き受けはしたものの、俗事多端、延引に延引を重ねながらも、碌な御紹介も出来ないのを恥かしく思う。

本書は第一編口語の研究、第二編日本文典、第三編文法、第四編文法論其一、第五編文法論其二、第六編文法論其三、第七編文法論其四、第八編国語学の八編と応問集及び索引が附録として収められてある。明治三二年から大正十二年に亘つて国学院大学で講義されたものの筆記であつて、大部古いものもあるので中には後に改められた説も含まれてあるようであるから、これらは是非博士の高等日本文法と対照して読まなければならぬのであるが、本書所載の説はいづれも教壇から述べられたものであるだけに、丁寧懇切に指示していられて、普通の著書には見られない所も多いから、高等日本文法を見る人は是非本書の第二編第三編等をひもといてその理解を完全にしなければならない。

第一編の口語の研究も簡単ではあるが、解決さるべき多くの問題が残されている現状に対して、有益な暗示の数々を包蔵していて、読まなくてはならぬ一編ではあるが、何といつても本書の中心は第四編から第七編に至る文法論であろう。よく古今の例を蒐集してある上に注意深い説明が加えてあつて、これを見ただけでも博士が如何に忠実に国語を見通そうとせられたかを窺うに十分であると思う。と同時に日本文法は如何に研究せらるべきものであるかを学ぼうとする者には、絶好の指針であろう。ただ所々説明に不備な点があつて折角の高説が徹底しかねる憾が無いでもない。これは筆記の文章には、殆ど宿命ででもあるように附きまとつている欠陥であつて、余儀ない事ではあるが、半言隻語も聞きおとしたくないと思う金玉の説にとつては、そうした微瑕も惜しくてたまらないように感じる。

第八編の国語学は、その範疇を示して要領を得た説明が附してあり、応問集はこの道に志す者の聴こうとする諸点が懇篤に釈かれてあつて、共に必読の諸章である。

博士の説は概して穏健であつて奇矯の言辞は何処にも見出すことは出来ない。それだけに花やかさはないが、味わつて見ると、言うに言われぬ甘さがあり、如何な初学の人達に向かつても、安心して精読を奨めることが出来る。けれども部分的の見解に至つてはその説を異にする者は私ばかりではあるまい。但し博士としては、所説すべて一条の貫通した理論の軌道上を走つていて、整然たる一王国を形成しているのであるから、その一部一部に就いてとかくの言議を挿むべきではないと信じる。

終に臨んで一言しなければならぬのは、安田氏兄弟の努力についてである。松尾博士も、その序にいつて居られるところの安田氏報本の美徳についてである。人の説を筆記するということは実際困難なものである。講演速記などの回送されたのを見るごとに、如何に談話の術に拙な自分であるとしても、こうも理解されないものであろうか、こうも誤解されるものであろうかと、戦慄をさえ感じるのが常である。従つて甲の筆記と乙の筆記と対稿したならば異説とさえ思われるまでの相違が発見されるのも、珍しいい例ではあるまいと思う。それを読み返し味わいかえして、一つの説に纏(マト)めてゆく困難は到底筆舌の及ぶ所では無い筈である。安田氏の研究を読むごとにその忠実な学風に感心している。氏のその学に忠なる精神と師を懐う哀情とが堅く合力してこの至難の事業を大成せしめたものと思う。本書を読んでいてこの師弟あることを思う時、何ともいわれぬ嬉しさなつかしさに目頭の熱くなるをさえ感じたのであつた。本書が学界に寄与するところの多かるべきは、言うまでも無い事であるが、また本書が人道の上に放散する余薫も蓋し大なるものあるべきを信ずるのである。

(国学院雑誌第18巻8号より)